2012年10月7日9:33 PM

先週は横浜週間だった。火水金と3日、自主的な打ち合わせ、お客様とミーティング、そして金曜の夜はPR関係者との交流会で中華街を訪れる。今が旬の上海蟹で紹興酒を楽しんだ。

以前のエントリー「広報間コミュニケーションのススメ」でも書いたけれど、一部大手企業以外は広報は一人となりがちな現実において、横の交流は自分の仕事の質を高めるためにも有効だ。

わたくしはIT企業での広報経験が長い分、ふだんの横のつながりもIT関連の企業広報や同業が自然と多くなるのだけれど、今回はテレビに強い人やコンシューマー畑の人などフリーPRマン中心に集まった。自分とは違うドメインを持つお歴々の話は興味深い。それに、みなさんPRマンらしく話し上手聞き上手な方ばかりで、仕事と遊びの境界線を巧みに行ったり来たりする話の連続に、気持ちのいい酒を飲んだ。ありがとさんでした。

ところで、横浜に行くと必ず思い出すよしなし事があり、ここのところ横浜に行くたびに思い出してしまい、話したくなったのでここに書いてしまいます。(まことに勝手ながら、広報の話はお休みさせていただきます)

大学も最終学年になり、モラトリアムの時代も終わろうとしている22年前、東京・三鷹に住んでいた。駅から南に2キロほどのところにある二階建てのアパートメントだった。太宰治が暮らした場所や墓にも近かったが、当時はそんなことにこれっぽっちも興味がないバカ田大学生だった。駅から2キロといえば、不動産の表示に関する公正競争規約で定められている毎分80メートルの速さで歩くと、25分かかる距離である。駅までの移動にはもっぱら自転車を利用していた。

ある夜、友人と痛飲して終電で三鷹まで帰ってきた。夏の初めだったと思う。駐輪場にいくと自転車がない。環八のオートテックの駐車場でクルマ誘導のアルバイトをして稼いだ金で買った、無印良品の白いチャリンコだ。今でもほとんどデザインを変えずに販売されている、ベーシックなやつである。

自転車の盗難は何度か経験があるが、その喪失感はとても大きい。

悪いことは重なるもので、当時同居していた実弟に自転車で迎えに来させて二人乗りで帰っていたら、おまわりさんにつかまった。しかし、自転車が盗られたことを切実に熱く訴えたら、交番で盗難届けを出したまえということになり、なんとなく二人乗りは不問となった。

それから暑い夏の間、駅までは歩いたりバスに乗ったりして自転車のない生活を送った。特に不便は感じなくなった。置かれた状況に知らぬ間に慣れ、そしてなじんでいく。ところが9月に入ったある日、おまわりさんから電話があった。わたくしの自転車が見つかったのだ。しかも横浜で。

おまわりさんによると、何回か乗り捨てられて最終窃盗者が横浜駅前で捕まったという。グーグルマップで調べてみると(もちろん今です)、三鷹駅から横浜駅までは最短でも31.7キロ、けっこうな距離を走ったものである。とにかく横浜まで行かなければならない。調書にサインをして自転車を返してもらうのだ。

さっそく、電車を乗り継いで現地に向かった。横浜駅前の交番で犯人の調書を熟読させられた。調布のどこかで乗り捨てられたマイバイシクルを盗んで横浜駅前で捕まったとある。出来心だったというような動機も書いてあった。自分も盗まれたときの状況をまた説明させられた。サインするだけかと思っていたが1時間以上はかかった。今もむかしも手続きの面倒な公共機関である。

やっと終わって、さあ自転車返しておくれと言ったら、ここにはない、保管場所まで取りに行けという。まだ手続きの続きがあった。場所は相鉄線で横浜から一駅、平沼橋というところにあるんだと。はいはい、どこでも行きます。

平沼橋の駅から保管場所まで歩き、数ヶ月ぶりに我がチャリンコと対面した。管理のおじさんが出してきてくれた。風雨に耐えながら酷使されたわりには小ぎれいな状態で保管されていた。必要書類に記入を終えたところで、おじさんが言った。「管理料を払ってね」 って、ここまでひっぱって、こんなオチで落としますか。たしか千円くらいだったけれど、自転車盗まれて横浜まで取りに来て管理料を払うとは。

でもまだオチはついていなかった。のん気に自転車にまたがって、はじめて気がついた。「ここから三鷹まで自転車こいで帰るってことですか?」「送るシステムはないんだよね、そのへんのコンビニから自分でやってね」「はい」 見知らぬ町であてもなく自転車をこぎ出す。文字通り右も左もわからない。このときの茫漠とした感覚は忘れない。

しばらくして首尾よく小さな商店に宅配便のマークをみつけた。店のおばさんにかくかくしかじかと事情を説明したら、送れるのは送れるけど車体が全部見えないように梱包されていなければ送れなくて、その専用の梱包材が1万円だという。なにそれ、そんなお金ない。

そんなこんなで二人で (すっかりおばさんとなかよくなっていた) 解決策を考えていたら、おばさんが「うちに一台自転車ほしかったのよ」と言い出した。途方に暮れていたわたくしは、「じゃあ、この自転車、お譲りしますよ」と即答していた。価格は梱包代と同額の1万円なり。銀行の口座番号と名前や電話番号を交換して商談成立。あっさり愛車を残し、行きと同じように電車を乗り継いで三鷹まで帰った。すでに夜になっていた。結局自転車は戻ってこなかったので徒労に終わったといえばそうなのだけれど、それよりも自転車が売れたことに対する、ある種の高揚感が勝り、意気揚々と駅からの長い道のりを歩いた。

後日、わたくしの銀行口座にはきちんと1万円が振り込まれていた。時はバブルの終末期。まだどこか鷹揚で、のどかな時代でありました。

 

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