2014年11月26日2:46 PM

忘れることの必要性については、学者の外山滋比古が著書の各所に書いている。たとえば「空気の教育」(ちくま文庫、2011年)には、「忘れない、もの覚えがいい、というのは、フン詰まりのようなもの」として、ほんとうに必要なものだけ記憶にとどめて、そうでないものはどんどん忘れ、消化力を高めよう、という趣旨のことを述べている。

さほど価値のないことや不愉快なことなどの有害物質が残っていると、頭も不健康になり、本来やるべき仕事の品質が下がるというのである。

広報の仕事は、社内外を問わず情報が集まってくるポジションであるから、ちょっと油断すると情報の洪水に溺れてしまいかねない。ただでさえ、目を閉じているとき以外はいやおうなく何かの情報がインプットされてくる時代でもある。たくさんの情報をふるいにかけて、いらないものは意識的にどんどこ捨ててしまいたい。

また、メディアと社内のディマンディングな(笑)方々にはさまれて、ストレスフルな仕事でもある。余計なことはさっさと忘却し、あっけらかんと次の課題に向かっていくほうが身のためだ。

気持ちよく忘れる効果的な方法は、外山先生の本にもいくつか紹介されており、人それぞれにあった方法があると思うが、わたし個人のことで言えば、毎日酒を飲み、週末には古い映画を観て(最近は若大将シリーズ)、そして軽く走る。どうでもいいことを忘れ、大事なことを忘れないために。

わたし個人のことでさらに言えば、こうした積極的な忘却ではない単なるもの忘れがカレイとともに増えてきた。

このまえは、探していてやっと見つけた中古レコードを、山手線のあみ棚に忘れてきてしまった。これまでも電車のあみ棚に荷物を置き忘れたことがなかったわけではないけれど、今回ショッキングだったのは、そのことに気がついたのが次の日の朝のトイレの中だったことである。一日近くも、忘れたこと自体を忘れていた、のである。

すでに読んだことがあることを忘れていて、同じ本を買ってしまうことも少なからずある。家に帰ってきて買った本を出した時に、何かしらいやな予感がして本棚を見る。果たしてその本がある。

そんなのはまだいいほうだ。村上龍の「無趣味のすすめ」は、こころに響く文章が多くて、その箇所にふせんを貼りながら丁寧に読んだ。村上龍のエッセイは、心の中で思っているだけでうまくいえなかったことがズバッと表現されていて、読んでいつも溜飲を下げるのである。読み終わったあとに胸騒ぎがした。本棚を見たら、同じようにふせんがびっしり貼ってある、もう一冊の「無趣味のすすめ」が置いてあった。

さすがにあきれ果てて、前にいつ読んだのかと調べたら(読んだ本のタイトルを日記に書き留めてある)、その一年半前であった。おまけに、その時にこの目黒広報研究所にも書いていたことを、たった今この文章を書いているときに思い出した。救いようがない。

せっかくなので、それぞれどの文章にふせんを付けているのか、共通している箇所と違う箇所はどれくらいあるのか確認してみたら、1回目には30か所、2回目には50か所貼ってある。そのうち、共通箇所が17、1回目だけが13、2回目だけのところは33もある。だから何、ソーワット。

ただ、このふせんだらけの二冊の本は、異なる時期の別の自分がそれぞれ読んだものなのだから、自分には、ある程度確立されてしまった動かせない基盤のような部分と、まだ状況に応じて自由に変化できる柔らかい部分が存在し、同じものを別の観点で見て新しい感覚を持つことができる余地が残されているのだと、前向きにとらえることにした。

 

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