2012年7月12日4:43 PM

ローリング・ストーンズの初期のマネージャーであるアンドリュー・ルーグ・オールダムは、PRマンとしても優れた才能を持っていた。ビートルズという人気も実力も圧倒的に先行するバンドが存在する中で、戦略的なPRを展開してストーンズのポジションの確立に成功した。

二十歳になるかならないかのやり手マネージャーがとったPR戦略は、おおまかにいうと2つだ。ひとつはわかりやすい対立軸の構築、もうひとつはメディアの徹底利用である。

・わかりやすい対立軸によるポジショニング

ローリング・ストーンズ30年史「ノット・フェイド・アウェイ」(同朋舎出版、1993年)によると、「クリーンで少年聖歌隊的なイメージ」のビートルズと反対に「下品で猥褻で、何をしでかすか分からない悪党のイメージ」に定着させることが、オールダムが考えた売り込み戦術だった。

具体的には、きれいに櫛が通ったマッシュルームカット vs 整えられていないボサボサの長髪、そろいのスーツ vs だらしがない服装、如才ない受け答え vs 無愛想な態度、などビートルズの対極としての存在に位置づけ、後発であったストーンズを世の中に売り込んだ。もちろん、これらの特徴はストーンズのありのままだったのだけれど、それを巧みに際立たせることでわかりやすい対立軸をつくった。対立軸の構築は、現在でも、市場で先行するプレイヤーがいる場合にしばしば使われる手法である。

・メディアがニュースにしたくなる素材の提供

オールダムは貪欲にメディアを利用した。キース・リチャーズの自伝「ライフ」(楓書店、2011年)にこんなエピソードが紹介されている。「ホテルを追い出されたあと、ガレージの前庭に小便したりした。ブリストルのグランド・ホテルに行って、わざと追い出される。アンドルーがマスコミに電話をかけ、ストーンズがグランド・ホテルから追い出されるところを見たかったら、これこれの時間にあそこにいろと教える。当然『あなたは自分の娘がストーンズの一人と結婚するのを許しますか?』みたいな反応が起こってくる」

わたしは、この内容そのものがいい作戦だったといっているのではない。相手もゴシップ紙だったろう。しかし、どんな情報を提供すればメディアが記事を書くのか、見出しが立つのかを、直感的にわかっていたのか、あるいは相手のメディアを研究していたのだと考える。メディアとも良好な関係を築いていたにちがいない。メディア研究とメディアリレーションの構築は今でも広報・PRの基本である。

ここからは個人的な話です。

ローリング・ストーンズというロックバンドの存在を知ったのは徳島に住んでいた1981年、中学2年生の時だった。1年生で東京に引っ越していった友人が遊びに来たときに「刺青の男」という新譜を持っていた。なぜ旅行にLPレコードを持っていたのか謎だ。でも、事実持っていた。そのレコードをソニーのBHFというカセットテープに録音させてもらって聴いたのが、最初のストーンズ体験である。1曲目の「スタートミーアップ」のイントロと2曲目「ハングファイヤー」のスタンスパンというドラムにノックアウトされた。翌年に発売された「スティルライフ」というライブアルバムを、はじめて自分で買った。

しかし、本格的にわたしをストーンズという沼地にはめ込んだのは、「カモン!ザ・ローリング・ストーンズ」というAMラジオの特別番組だった。たぶん1982年の放送だったと思う。文字通り「ストーンズを日本に呼ぼう」というテーマだった。パーソナリティーは渋谷陽一と大貫憲章だ。60年代と70年代の代表曲をかけながら2人が語る、ストーンズのエピソードやストーンズまわりの話に夢中になった。初期リーダーのブライアン・ジョーンズの脱退と死のこととか、映画「太陽を盗んだ男」で沢田研二が原爆を作って政府に「ローリング・ストーンズを日本に呼べ!」と要求するんだよね、とか。なにか退廃的でミスティアリアスな感じに興奮した。

この番組をテープに録音して擦り切れるほどくりかえし聴いたら、本当に擦り切れた。切れたテープをボンドでくっつけて、また聴いた(ほんとです)。だから、尾崎亜美の「オートラマに会いに来い(愛に恋)」というCMまで覚えてます(笑)

「スティルライフ」のライナーに「もうSTONESも終りにちかい。50才になったMICKを見たいとも思わない」と書いてあって、中学生のわたしも「まあ、そんなおじさんになったら解散してるかもな」くらいに思っていたけれど、自分は当時のミック・ジャガーの年齢をとっくに越え、そのミックは来年古希でストーンズはなお現役だ。

以上長くなりましたが、この場をお借りしまして、ローリング・ストーンズの初ステージから50周年、本日はまことにおめでとうございます。

 

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